第369回圓橘の会
11/24(土)、深川東京モダン館で行われた第369回圓橘の会に行ってきた。
・まん坊「雪てん」
・圓橘「盃の殿様」
~仲入り~
・圓橘「磯部のやどり」(岡本綺堂作)
圓橘師匠「盃の殿様」
前方のまん坊さんの「雪てん」を、「あれは私が教えました」と園橘師匠。
私も前座の頃やりましたがその時には次が出てこないことがよくあって、今日もそれを楽しみに聴いていたんですが、無事につとめたようですね。
お殿様も二代目三代目となるとずいぶん気が抜けてくるというまくらから「盃の殿様」。
お殿様になんともいえない品があってそこが園橘師匠らしい。そんなお殿様が「剣術の御稽古を」と言われてあからさまに嫌な顔をして「つむりが痛い」と仮病を使うおかしさ。
そしてそうやっているうちに気鬱になっていくのも、我がままと生真面目さが出ていて面白い。
気晴らしにと歌を聴かされて「うるさい」、噺家を呼ぼうかと言われても「噺家は嫌いじゃ」、それが医者から花魁の錦絵を見せられると思わず目を奪われ、「美しい女子ばかりじゃが、老女がおる」「この子どもは?」と食いついてくるのがおかしい。
でもこれは絵空事だから実物は違うのだろう?と聞くと、実物はもっと美しいと言われ、「まことであるか?」と何度も確認するのもおかしく、それならばと家老の弥十郎を呼びつけて「吉原に行って花魁を買いたい」と単刀直入に言うのがおかしい。
それを撥ねつけられると「だったら冷やかしをしたい」。これもだめだと言われて「お前の顔は見たくない」と拗ねるのも、無理に脅したりしない品の良さが出ている。
300人の家来を引き連れて吉原を目指し、部屋から花魁道中を興味津々で見て、中でも一番美しかった花扇を部屋に呼び入れる。
花扇は殿様を客にすれば小遣いに困らないと思うのだが、厳めしい家来が大勢いていつもの手練手管を出すわけにもいかず…殿様を目で物にする、というのが面白い。
また吉原に行きたい殿様が「裏を返さないわけにはいかない。武士たる者、背中を見せてはいけない」と屁理屈を言うのも楽しい。
参勤交代で国へ帰った殿様が花扇のことが忘れられず盃を交わしたいというので、10日で三百里を走る足軽が江戸と殿様の間をえっほえっほ!と走るというのが、なんともばかばかしくておかしい。
行列を横切ったために捕えられた足軽がその大名に訳を話すと「それは粋だ」と目を輝かすのも楽しい。
楽しかった~。
園橘師匠「磯部のやどり」(岡本綺堂作)
初めて聴く噺。
赤穂浪士の討ち入りから30年ほど経って、若い旗本が集まって話をしている。その中の一人が、中間と二人で磯部へ行った時のことを語る。
妙義神社へ参ろうと歩いていると中間が疝気を起こしてしまう。これ以上歩くのは無理だと思っていると小さなお堂があった。そこで一時休ませてもらおうと訪ねると、そこには子どもが二人留守番をしていて、話をすると湯を持ってきてくれた。品のいい言葉遣いの丁寧な子どもなので、師匠の教えがいいのだろうと思いこの師匠に一目会ってみたいと思う。
そうこうするうちに帰ってきた師匠は年の頃は60代の白髪の老人だが、肩幅や出で立ちを見るとおそらく元は侍なのではないかと見受けられる。
中間の具合も悪く雨も降ってきたので一晩泊めてもらうことにして老人と話をしていると、どうやらもとは江戸にいたらしい。
泉岳寺の様子を尋ねるので、今も栄えていること、赤穂浪士の人気が高く芝居になったりお詣りする人が絶えないことを話す。
そこまで語って、聞いている旗本たちに「この男誰だと思う?」。
男は帰ってきてから叔父を訪ねてこの話をすると「それは大野九郎兵衛だろう。自分がその場にいたら斬り捨てたものを」と悔しがった、と言う。討ち入りに加わらなかった九郎兵衛の不忠義を叔父はいまだに許せないのだ。
しかし自分はそこで九郎兵衛と分かっても斬り捨てたりはしなかっただろう、と言う。
仲間が「なぜだ」と問うと、九郎兵衛は親切な男だったから、と答える。
その後10年ほど経って再び磯部を訪ねると九郎兵衛はすでに亡くなっており若い僧が墓まで案内してくれた。
墓の前で「この和尚は素晴らしい人でした」と僧。
洪水の時は自費で堤防を作り、悪い病が流行った時はよく効く薬を求めてきて村人に配り、子どもに手習いをしてくれた。
決して豪華な墓ではなかったが掃除をしている者がおり、またその僧の「師匠」と言う言い方に覚えがあり、はっとした。
…この若い僧はあの時の子どもの一人なのかな。
細かい説明はなかったけれど、不忠義者とされていた九郎兵衛にもおそらく事情があり、磯部に身をひそめてからもそこで尽くし、今も慕う者が多いことからも彼の人生も間違っていたわけではないのだ、ということが伝わってきた。