りつこの読書と落語メモ

読んだ本と行った落語のメモ

小三治一門会 調布グリーンホール

5/15(火)、調布グリーンホールで行われた「小三治一門会」に行ってきた。

・小はぜ「平林」
・福治「安兵衛狐」
~仲入り~
・三之助「替り目」
小三治「小言念仏」


小はぜさん「平林」
わーい、小はぜさん。
これってあんまりおもしろい噺じゃないし、そもそも無理がある(だって「ひらばやし」を覚えられない定吉が、「たいらばやし」「ひらりん」「いちはちじゅうのもくもく」「ひとつとやっつでとっきっき」を覚えられるわけがない!)と思うんだけど、小はぜさんがリズムに乗ってテンポよくほんとに楽しそうにさらっとされるので、見ていてとても楽しい。
特に何か入れごとをするわけじゃないのに、間がいいから、わかっていてもつい「ぷっ」と笑ってしまう。
サゲも、ぱっとしないサゲだよなーといつも思っていたんだけど、小はぜさんの「平林」はサゲでふわっと力の抜けるところがとても楽しくて、サゲで初めて笑ったかも!
小はぜさん、いいぞ~。
こんな大勢のお客さんを前に前座としてこういう高座を何回もつとめてるんだもんなぁ、小はぜさんは。力もつくよね、そりゃ。


三之助師匠「替り目」
前半があっという間に仲入りになってしまいちょっと不穏な空気になったお客さんを、まくらで笑いの渦に巻き込んだのはさすが。
落語に入ってからも、酔っ払いの歌でどっかん!ときてたからなぁ。
私の隣のおばあさまたちも大笑いしてて「上手ねぇ」って喜んでた。
順番的にあれ?と思ったけど、この順番でよかった。


小三治師匠「小言念仏」
この日、高畑監督のお別れの会に行ってきたという小三治師匠。
まだ頭の整理ができてないけど…とその話を。

そもそも自分はお弔いが嫌いでまず行かない。
その人が亡くなってさみしい、お見送りしたい、近しい人たちで思い出を語りたいという気持ちはあるけど、葬式っていうのがその人とは関係なくイベント化しているのがどうも嫌いで。だって死んだ当人は知っちゃいないでしょ、こんなことは。だから自分もやってほしくない。いつか私も死ぬかもしれないですけど、その時には葬式はしてほしくない。あ。死ぬかもしれないじゃない、絶対死ぬんだな、ははは…。

今日行った高畑監督のお別れの会はあの方の大好きだったジブリの森の美術館でありました。
そんなに大勢入れるようなホールじゃなくて…200名は入れないかな…。こじんまりとした…でも盛大な、いい会でした。

高畑監督が落語が好きで、小三治のことも好きで、そんな縁もあってジブリの森で社員だけに向けての落語会を年に一回招待されてやっていた。それとは別に私の会にも黙って来てくれて…そんなご縁があった。
でもそれよりもなによりも作品が素晴らしかった。そういって、「風の谷のナウシカ」「火垂るの墓」の話。

特に「風の谷のナウシカ」については、最初に世に出した作品というのがどれほどの熱を持っているか、その感動をあちこち話が飛びながら(小椋佳のデビュー曲のすばらしさ、この名前が出てこなくて、うりゃーーとなる師匠。でもまくらの終わり間際に急に黙ったかと思ったら「おぐらけいっ!」とジェスチャー付きで叫んだのが最高!なんてかわいいんだ!)。

一作目というのは本当に特別。
二作目以降がだめだと言ってるんじゃない。
でも、一作目の「これで世に出るぞ。じぶんはこれでやっていきたいんだ」という熱は何にもかえがたいものがあって、そのあとはどうしても一作目の上を行こうとか違うことをしようとか興行的なことやお金のことを考えるようになる。
お金のことが絡むとほんとにダメ。落語もそうだけど、みんなお金でダメになる。
もちろん誰にだって売れたいとかお金がほしいという気持ちはあるけど、それがほんとに作品や芸をダメにする。
政治家もそう。ほんとにどいつもこいつもみんなカネカネカネだよ。(とまたしばらく脱線)

この高畑さんという方はとても穏やかで優しくていつもにこにこしている柔らかい人だった。やっぱりそうでなきゃいけない。
やってやるぞとか変えてやるぞというとき、どうしても力が入ってこうかたくなる…負けねぇぞってまわりに対して身を固くする。私もそうですけど、でもほんとはそれじゃいけない。
何かを成し遂げるには柔らかくなきゃいけない。やさしくなきゃいけない。

…あちこち話が飛びながら、「あれ、おれなんでこの話してるんだっけ」「また長くなっちゃう」と言っては、「今日は私の落語は面白くないですよ」「あ、やりますよ。落語も」。
「もう毎年こんななんだからわかりそうなもんじゃねぇか」「なのにこんなに(お客さんが)来るんだから。なんで来るんですか?」「…いやありがとうございます。ほんとうに。来ていただいて」。

…ぶわはははは。もうほんとに好きだ、小三治師匠。
話があちこち飛ぶのも、いろんなことが浮かんできてそれを伝えたいと思うからで、次々いろんなことが湧き出てきて、それをどうにかして伝えようとする気持ちがとても尊くて、ずーっと聞いていたくなる。
そして、高畑監督がとても穏やかで控えめでえばらない人で、だけど音楽にもものすごく詳しくて、自分が作りたいもの変えていきたいものがあってそれをひたむきに作っていったこと、そして作られた作品がどれも素晴らしくてそれを見られたことを感謝していて…。
そのことが伝わってきてじーんとした。

落語だってそうなんです、と。
高座の上でいつも悩んでいて一生懸命みっともなくもがいていて、…でもそれを一生懸命聞きに来るお客さんがいて、お客さんも一緒になって一生懸命になって苦しみながら聞いていたりして…。なんなんだろうね、これは。でもありがたいです。ありがたい。

…その言葉を聞いた時に、ああ、ほんとにそうなんだよ、となんか胸がいっぱいになった。
私も馬鹿みたいに落語を聴きに行って、何度も同じ人を見に行けば、その人だって調子が悪い時もあって、そういうこともしょっちゅう行ってるとわかるようになっちゃって、そうなると純粋に落語を楽しんでるっていえない状態になって、そんなにまでして見に行く自分ってバカじゃねぇか?と思ったりもするんだけど、でも噺家さんがもがいている姿を見て自分の励みになってもいるわけで。
なんとなくそのことを小三治師匠に肯定されたような…そんなことはないんだろうけど…でも私はもともとネガティヴだから「この客こんなにしょっちゅう見に来やがって。バカヤロウ。」と思われてんじゃないかと思うこともあるので、小三治師匠の言葉はとても嬉しかったのだった。


そんなながーーーいまくらから「小言念仏」。
もうきっとまくらが長くなった時にこれにしようと決めていたんだろう。
小三治師匠が「小言念仏」をやると「またか」と言う人もいるけど、そして私も「この人はこればっかりだ」と文句を言うの党だけど、小三治師匠の「小言念仏」は本当に好きで何回聞いても好き。ほかの人の「小言念仏」は聞きたくないくらい好き。
そしてまくらが長い時は小三治師匠の調子がいい時でもあるので、小言念仏は大歓迎なのだ。

念仏唱えながら小言のたねを探してる様子がなんともいえずチャーミングで、小言もいちいちおかしくて笑ってしまう。
「話しかけるんじゃないよ。信心の邪魔になる」には大笑い。
赤ん坊に向かって「ばぁ」。…あのかわいらしさはずるいよなー。
楽しかったー。そして元気な師匠が見られて、生の声が、想いが聞けてほんとにうれしかった。満足。