りつこの読書と落語メモ

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アラブ、祈りとしての文学

 

アラブ、祈りとしての文学 【新装版】

アラブ、祈りとしての文学 【新装版】

 

 ★★★★

 

もしもパレスチナの難民キャンプで傷付いた子どもの傍らにいたなら、
私たちはその手をとるだろう。ベツレヘムの街で自爆に赴く青年が目の前にいたら、
彼の行く手を遮るだろう。
だが私たちはそこにいない。

小説を書き、読むという営みは理不尽な現実を直接変えることはない。
小説は無能なのか。悲惨な世界を前に文学は何ができるのか。古くて新しい問いが浮上する。

ガザ、ハイファ、ベイルートコンスタンティーヌ、フェズ……、様々な土地の
苛烈な生を私たちに伝える現代のアラブ文学は多様な貌をもつ。しかし
各作品に通奏低音のように響く、ひとつの祈念がある。
「「かつて、そこで」起きた、もはやとりかえしのつかない、痛みに満ちた
出来事の記憶。もう帰ってはこない人々。[…]作家は、頭蓋骨に穿たれた
二つの眼窩に湛えられた深い闇からこの世界を幻視し、彼岸と
此岸のあわいで、起こらなかったけれども、もしかしたら起こりえたかもしれない
未来を夢見続ける死者たちの息づかいに耳を澄ます。」

小説を読むことは、他者の生を自らの経験として生きることだ。
見知らぬ土地、会ったこともない人々が、いつしか親しい存在へと変わる。
小説を読むことで世界と私の関係性が変わるのだ。
それは、世界のありようを変えるささやかな、しかし大切な一歩となる。
世界に記憶されることのない小さき人々の尊厳を想い、文学は祈りになる。
「新装版へのあとがき」を付す。

[初版2008年12月19日刊]

 

しんどかった…。途中「もう無理!」と投げ出しかけ、気を取り直して読み直しの繰り返しでどうにか読み終えた。

ホロコーストは知っていたけど、ナクバは知らなかった。

ホロコーストを体験したユダヤ人がなぜパレスチナ人に同じことを繰り返すのか、という問いをよく聞く。
(中略)

ホロコーストという出来事とは、実は人間とは他者の命全体に対して限りなく無関心である、という身も蓋もない事実を、言い換えれば「人間の命の大切さ」などという普遍的な命題がいかにおためごかしかということを否定しがたいまでに証明してしまった出来事ではないのだろうか。

(中略)

むしろホロコーストを経験したユダヤ人「だからこそ」なのだということを物語っているように思えてならない。

(中略)

他者の命に対する私たちの無関心こそが殺人者たちにシニシズムを備給し、彼らが他者を殺すことを正当化し続けるものとして機能しているのである。

爆弾が飛んできて自分の家も故郷も祖国も奪われる中、そして世界がそのことに無関心な中、文学はあまりに無力だ。
でも物語という形で伝えること、共感を得ること、そして慰めを与えることができる。読むことで知ること、感じること、祈ることはできる。 

だから文学は無力ではあっても無意味ではない。本を読むことも決して無意味ではない、と思いたい。