りつこの読書と落語メモ

読んだ本と行った落語のメモ

リュドミラ・ペトルシェフスカヤ「私のいた場所」

 

★★★★

空を飛ぶ病身の女、
キャベツの赤ん坊を育てる母親、
身体を入れ替えられた妻、
生の心臓を食べたがる娘、
マッチを擦る黒いコートの少女----

現代ロシアを代表する女性作家による、本邦初の幻想短篇集。現実と非現実、生と死の狭間をたゆたう女たちを強靱な筆致で描く、めくるめく奇想世界。全18編を収録した日本オリジナル編集。

ペトルシェフスカヤの幻想小説の主人公たちは、
狭苦しい共同アパートの息も詰まらんばかりの
即物的な「生の王国」にいたはずが、
いつのまにか「境界」を踏み越えそうになり、
抽象的な風景にとまどいながら我知らず
境界領域を旅していることが多い。
(略)彼らはふたたび「生の王国」に戻って
来られることもあれば、そのまま
「死の王国」へと旅立たなければならないこともある。(訳者あとがき」より)

とても苦しみながら読んで、途中何度か挫折しそうになって一時中断して、他の本を何冊か読み終わって、また戻ってきてどうにか読み終わったんだけど、読書メーターに感想を登録しようとしてびっくり。以前読んだことがあって感想もあげていたyo!(このブログには登録はしていたけど感想はあげてなかった)

短篇集で一話一話はそれほど長くないし文章も読みやすいんだけど、生と死の境目が曖昧で、簡単に殺すし簡単に死ぬし時々は生き返る。
読んでいて、うわぁぁぁと気が滅入る話ばかりで、なかなか読み進められなかった。

「私のいた場所」
夫と一緒にお客に行った先で、夫が子供みたいな娘のそばに腰を下ろしいつまでもぐずぐずしているのを目にしたユーリャは衝撃を受け愛が身体から抜けていくのを感じる。
こんな家にはいたくないと荷物をまとめて家を飛び出す。
向かった先はアーニャおばさんの家。何年も会ってはいないけれど別荘を持っていて娘とはほぼ絶縁状態で娘の産んだマリンカという孫と一緒に暮らしている。茶目っ気があって行けばいつも歓迎してくれたおばさんのもとへ泊りに行こう。

途中であやうく車にはねられそうになりながらおばさんの家を訪ねると、家は朽ち果ておばさんの様子がおかしい。
歓迎どころか「私は埋葬されたの」「さあさ、帰って」と言う。
家が荒れ果てて水さえないのを見たユーリャは近くの井戸へ水をくみに行き戻ってくるとおばさんは玄関のカギをしめてしまっている。
自分の荷物も家の中に置きっぱなしだからどうにかして中に入らないとと思い、二階の部屋がいつも鍵を開けっぱなしにしていたことを思い出し、屋根までのぼるが…。

読んでいて、ユーリャがおばさんの家に行こうと決めた時に「ああ、きっと歓迎されないんだろうなぁ」と思う。思ってはいたんだけど、待っていたのは想像していたよりも悲惨な事態で、うわぁ…なんだろうこれは、いやでもそもそも家を飛び出すくだりも唐突ではあったしなぁと思っていると、思わぬ展開が待っている。

このおばさんの家の描写に既視感があってぞぞぞ…としたんだけど、前に読んだからなんとなく覚えていたってことか?(とほほ…。


「奇跡」
息子が首を吊り瀕死の状態で病院に運び込まれる。
母はなにがなんでも息子の命を助けてほしいと願うが、この息子が彼女がいろんな仕事をして稼いだ金をあてにして、テープレコーダーを欲しがり、買ったら買ったで「これじゃだめだ」ともっと高くてもっと性能のいいものに替えてきて、近所の悪いやつらからいじめられたり盗られたりして彼女が稼いだ金を無尽蔵に使い果たし、軍隊に呼ばれてやっていく自信がないから狂言自殺をしたのだった。

なけなしのお金をはたいて手術をお願いすれば息子の命は助かるかもしれないが、狂言自殺を図ったと思われているから助かった後は精神病院に入れられることは分かっていて、そうするとまたお金がかかるし、運転免許証を取ることができないから息子が絶望することは目に見えている。

自分はどうしたらいいのかと母親が途方に暮れてすれ違う人みなに相談していると、コルニールおじさんに会いに行って解決してもらえばいい、と言う人がいる。
ただしこのコルニールおじさんはアル中なのでウォッカを飲ませないと話を聞くことはできないが、彼は死にかけているのでウォッカを飲ませたら致命傷になり死んでしまうだろう、と言われる。

途方に暮れた母親はウォッカを持ってコルニールおじさんに会いに行くのだが…。

 

これもまた絶望オブ絶望な物語。
息子をそのまま死なせるのも地獄、生き返らせるのも地獄。
それでも自分の命より大事な息子を生き返らせたい、でも今の状態で生き返ったところでろくなことにならないことは分かっている。いったいどうすべきなのか分からず、神でも悪魔でもない…死にかけている謎のコルニールおじさんに会いに行く…。
この絶望の淵で彼女が達した境地に希望があるわけでもないということろがみそで…。

でも知り合いも知らない人も神も賢者も政治家も助けてはくれないのだから、自分で自分のことは考えるわ、というのは究極の正解なのかもしれない。

 

どの物語にも根底にあるのは圧倒的な絶望で、熱がある時に見る夢のように理解できないルールがあって自分ではコントロールできなくて、ぐるぐるぐるぐる回っている。 背負いきれない不幸と精神の荒廃にやられながら読み終えた。

モーパッサン「脂肪の塊・テリエ館」

 

★★★★★

『脂肪の塊』では祖国愛と、『テリエ館』では宗教と絡ませた、娼婦を主人公に据えた中編2作品。
前者は30歳で発表された、文豪の地位を確立したデビュー作。

プロシア軍を避けてルーアンの町を出た馬車に、“脂肪の塊”と渾名(あだな)される可憐な娼婦がいた。空腹な金持たちは彼女の弁当を分けてもらうが、敵の士官が彼女に目をつけて一行の出発を阻むと、彼女を犠牲にする陰謀を巡らす――ブルジョア批判、女性の哀れへの共感、人間の好色さを描いて絶賛を浴びた「脂肪の塊」。同じく、純粋で陽気な娼婦たちと彼らを巡る人間を活写した「テリエ館」。

プロシア軍を避けるために馬車に乗った3組の金持ちの夫婦、尼さん2人、革命家、そして「ブール・ド・スイフ(脂肪の塊)」と綽名される娼婦。
馬車が雪だまりにめりこんで動けなくなり出すのに2時間もかかったため、乗客はみな空腹で居ても立っても居られない。飯屋も酒屋も見当たらず不穏な空気が立ち込める中、娼婦は用意していた弁当を他の乗客にも分け与える。

娼婦を軽蔑しながらも背に腹は変えられぬとばかりに分けてもらった弁当を頬張る乗客たち。
それまで汚いものを見るような目で見ていた彼らが彼女に話しかけたりおべんちゃらを言ったりする。

ようやく宿屋に着きほっとしたのもつかの間、敵の士官が娼婦に目を付けて自分の相手をするように宿屋の主人を通じて命令してくる。
愛国心に満ちた彼女は士官の要求を撥ね付け、最初は彼女の気概を讃えていた乗客たちも、士官に出発を阻まれ足止めを食らわされると、「どうせ身体を売る商売をしているのだからもったいぶることないのに」と彼女を士官に差し出すための策略を練り始める…。

金持ち夫婦たちにあれやこれや言われ、尼さんに「犠牲の精神」を説かれて、嫌々ながら自らを差し出した娼婦。
そのおかげでようやく出発することができたのに、彼らは汚いものを見るように彼女を見、お弁当を持ってこなかった彼女に分け与えることもしない。
彼らへの当てつけのように「ラ・マルセイエーズ」を口笛で吹く革命家だって、旅館に着いた夜、彼女を自分の部屋に引っ張り込もうとしていたのだ。
彼らを責めることはせず、道中ずっと泣いている娼婦は、自分がした行為への恥ずかしさと彼らの口車に乗ってしまったことへの後悔でいっぱいだったのだろう。

学生の頃に文学全集で読んだことがあったと思うんだけど、こんな話だったんだ!
1880年の作品ということは145年前!それなのに全く色あせない…それはきっと職業の貴賤や地位や名誉では測れない人間の本質を描いているからなのだろう。


「テリエ館」もやはり娼婦たちが主人公。
娼婦たちが主人(マダム)の弟の子の聖体拝受式に参加して、その荘厳な宗教行事に感動し涙を流し心洗われた後、また娼館に戻って彼女らの帰りを待ちわびていた男たちとはしゃぎいちゃつく。

なんかこの純粋さと陽気さに笑ってしまったんだけど、モーパッサンも彼女らのことを否定していないよね?

津村記久子さんの「やり直し世界文学」に取り上げられていたから読んだんだけど、読めて良かった。
やっぱり名作って侮れない。新しい本に飛びつきがちなんだけど、古い本も読んでいきたいと思った。

 



ファン・ジョンウン「百の影」

 

★★★★★

強大な力によってかけがえのない日常を奪われながらも、ひたむきに生きる2人のあたたかで切ない恋物語

---------

大都会の中心に位置する築40余年の電子機器専門ビル群。
再開発による撤去の話が持ち上がり、ここで働く人たちは〈存在していないもの〉のように扱われる。

──弱き者たちに向かう巨大な暴力。
この場所を生活の基盤とするウンギョとムジェを取り巻く環境はきびしくなっていく。

しかし、そんな中でも二人はささやかな喜びで、互いをあたたかく支えあう。
2人が歩く先にはどんな希望が待っているのか……。


ファン・ジョンウンは「野蛮なアリスさん」の印象が強いのだが、こちらは打って変わって静かな作品だった。 


立ち上がる影は不安や絶望に飲み込まれそうになると出てくるものなのか。
親の代から続く貧困、先の見えない未来、失われる居場所。
そんな絶望的な状況の中で、思い合い寄り添い合い相手が傷つかないようにと心を砕いて言葉を選んで会話をする。

停電の夜。いつになったら電気が付くのか分からなくて、自分の影が立ち上がってきて飲み込まれそうで怖くて、もしかしたら自分がけがをしているかもしれなくて不安で泣いている時に、かかってきた電話。

怖いんですか?歌を歌ってあげましょうか?それとも話をしますか?と聞かれて、話をしてくださいと言って話しているうちに気持ちが落ち着いてきて、「じゃ私はオムサの話をします」と言って始めた話。

 オムサって言って、おじいさんが電球を売ってる店なんですけど。電球といってもいわゆる裸電球みたいなのじゃなくて、一つ二十ウォン、五十ウォン、百ウォンとかの電子製品に使われる小さな豆電球のことなんですけど。オムサでそういう電球を買うと、いつも決まって一つ余分に入ってるんです。二十個買うと二十一個、三十個買うと三十一個、五十個買うと五十一個、百個買うと百一個、という具合に毎回買うたびに一つ余分に入ってるんです。

 数え間違いじゃないんですか?

 あたしもそう思ったんです、たった一つなんだけどいつも余分に、というのが繰り返されるのを見て、偶然じゃないと思うようになって、ある日、聞いててみたんです。おじいさんは、電球を数えていたのをやめてあたしをじっと見つめて。何か悪いこと聞いちゃったのかなと思って緊張して、よく見てみると、口を少しずつ動かしているんです。何か話そうと必死になっているような。そうしてだいぶ経ってから言うには、帰り道に割れることだってあるだろうし、不良品がまぎれてるかもしれないし、オムサは遠いからお客さんが行ったりきたりしなくてすむように一つ余分に入れておくんだって言うんです。それを聞いてなんていうか、純粋に心が動かされたっていうか、なんでかっていうと、ムジェさん、1+1みたいなものもあるでしょう。ディスカウントスーパーなんかには、ムジェさんもそういうの買ったことあります?

 ときどき。

 一つ買うとおんなじのがもう一つついてくるっていうのを買うと、得したような気がするけれど、それは思いやりだとか気遣いだとかいう感じはどういうわけかしなくて。

 言われてみれば。

 オムサの場合はちっちゃくて安いたった一つの電球だけど、とても大切なおまけをもらったような気がして、嬉しかったんです。


今まで誰にも話したことのない些細な出来事や子どもの頃の辛いと感じた出来事も、この人になら話せる。分かってもらえる。そう思える相手に出会えることの奇跡。
いつも弱者側でいじめられる側で自信がなくて怯えていて…。でも譲れないものがあってそこだけは死守したくて自分なりには戦って生きている。

好きな人を励ましたくて笑顔が見たくてちょっと無理をする。自分も不安だけど相手が意気消沈していたら「大丈夫だよ」と声をかけて手をつなぐ。怖かったら話をする、歌を歌う。

殺伐とした世界の中でささやかな日常が続きますようにという祈りのような、私たちは弱いけれど譲れないものは絶対に守るのだという決意も感じされる物語だった。
とても良かった。読めて良かった。

 

ミッチ・アルボム「時の番人」

 

★★★

地上で初めて時を計った男がたどった運命とは――時間に追われる現代人のための物語。名作『モリー先生との火曜日』の著者最新作。

タイトルと表紙に惹かれて読んでみた。

太古の時代に時を発見した男ドールは洞窟に追いやられ世界中の人々の時間への嘆きを聞き続けなければいけなくなる。

一方現代のパートでは頭はいいけれど学校では孤立してボーイフレンドも友だちもいないサラがボランティア先で出会ったハンサムな少年に夢中になっている。初めてのデートで舞い上がり頭の中は妄想でいっぱい。少しでも自分をかわいく見せたくて準備に余念がない。

もう1人の登場人物は末期がんで死を待つばかりになった資産家のヴィクター。今まで何もかも自分のコントロール下に置いて来た彼は、死をも出し抜こうと考え、妻には内緒で冷凍保存という方法を模索し始める。

この3人の物語が交互に語られ、後半ではドールが神からこの二人に地上で会うことを言い渡されて地上に降り立ち、3つの物語が交差する…。

…んだけど、なぜ現代パートがこの二人なのか、ドールが巣食わないといけないのがなぜこの二人なのかという疑問が最後まで読んでも消えず…。
古代の部のスケールと現代の部のスケールに違いがありすぎるような…いやでもドールも愛する妻を救いたい一心だったわけだから、スケールの大小を言うのもナンセンスなのか。

良くも悪くもYA作品なのかな?感もあった。

それでも3人の物語が交わるシーンは泣いちゃったけどね。
時間を引き延ばすことではなく、限りある時間を大切に大事なものをしっかり目に焼き付けて生きることが大事ということなのかなと思った。

井上荒野 「猛獣ども」

 

★★★★

「愛の行方」を書きながら、そもそも「愛」ってなんなのだろうとずっと考えていました。 自分にとって大切な小説になりました。                               井上荒野

「姦通」していた男女が熊に殺されたー。 閑静な別荘地で起きた事件は、愛に傷ついた管理人の男女と、6組の夫婦に何をもたらしたのか。 愛の行方の複雑さを描く傑作長編!


別荘地の森の中で男女が熊に襲われて死ぬ。住み込みの雇われ管理人をしている男、本社から派遣されてきた女管理人、この地に住む6組の夫婦。それぞれの視点から彼らが今置かれている状況や愛憎が描かれている。

うまくいかなかった恋愛とその時のみっともない自分から逃げるように東京を後にした管理人の慎一。
七帆は社内不倫を相手の妻に暴かれ、またそうなった時に男は保身に走り、裏切られた気持ちのまま左遷されてきている。
七帆に別れた恋人を重ねてぎくしゃくしてしまう慎一と、傷ついているが故にぶっきらぼうな態度になる七帆。

別荘地に住む6組の夫婦も、おしどり夫婦と呼ばれながら実は憎しみ合っていたり、何十年も円満でいたのに夫の癌で隔たりが生じたり、愛し合っているけれど話せない秘密があったりする。

癌になった夫を見守る妻の心境がとてもリアルだ。

怒るより悲しむべきだろう。孝太郎はじきに死んでしまうのだから。もちろん、悲しい。でもそれよりも怒りがある。孝太郎が勝手に死んでしまうことへの怒り。いや、そうじゃない。孝太郎が、死ぬよりも早く、私から離れていこうとしていることへの怒り。孝太郎は早々に死に捕まえられて、まるで愛人ができたかのように私のことなど眼中になくなってしまった。

一方、自分のことを心配して電話をかけて来た長男の電話に出たくない、夫の心境も理解できる。

なぜなら小百合も、彼らも、生きていく者たちだからだ。命の刻限を知らされた今、彼らと自分との間には一本の線が引かれてしまった。生きていく彼ら、死んでいく僕。どんなに慰められても、あたたかな気遣いを受けても、その事実は変わらない。年齢は関係ない。死が見えたものの気持ちは誰にもわからない。


恋愛も結婚も難しい。また長い年月をかけて愛情を育み思い合って生きてきた夫婦にも試練が訪れ別れを余儀なくされることもある。それに翻弄され暴れまわるように必死に生きていく私たちはまさに「猛獣ども」なのかもしれないと思ったのだった。

覗き見をしているような背徳感を感じつつ、吸引力がすごくてあっという間に読んでしまった。
面白かった。

キム・チョヨプ「この世界からは出ていくけれど」

 

他人よりも時間の流れが何十倍も遅い世界を生きている姉から届いた3年ぶりの手紙には、観覧車にまつわる怪談について調べてくれ、と記されていたが……「キャビン方程式」。
ダンスのレッスンを希望するマリは、芸術を目で見て楽しむことができない特殊な体質のはずなのだが……彼女が踊る目的は? 「マリのダンス」。
社会の多数派とそうなれない者がお互いに理解と共存を試みる、彼女たちの選択7篇。解説/江南亜美子

SF的な設定の中、分かりあえそうで分かり合えないもどかしさ、その中でほんのわずかに見える光、一瞬だけ通じ合えた時の温かさを描いた作品が多かった。 

 

「マリのダンス」

モーグと呼ばれる視知覚の異常症を抱える人たちが全体の5%いる世界。
ある日わたしは友人からモーグの少女マリにダンスを教えてくれと頼まれる。視知覚がない人間に果たしてダンスができるようになるのか不安を抱きながらも、普段接することがないモーグモーグは特殊区域に固まって生きている)への好奇心もあって引き受ける。

モーグはフルイドと呼ばれる神経系のインプラントを使って視覚を補っていて、マリはフルイドに新しい機能を追加してさらに進化させて新ビジネスを立ち上げようとしており、ダンスを教わりそれを公演するという目的を持っていた。

マリといると、ワクワクする好奇心と居心地の悪さの両方を感じるわたしは、一度だけ貯めさせてもらったフルイドで不穏な会話を耳にして、マリがダンスの公演会で何か危険なことをしようとしていると勘づくのだが…。

圧倒的多数派とマイノリティ側で見える世界が全く違うということを思い知らされる。
マイノリティであるモーグたちがしようとしていたことが「テロ」と呼ばれてしまうこと、不穏なことをしようとしていると感じると何から何まで信じられなくなってしまうことなど…とてもリアルで、自分が「わたし」だったらどうするだろう…と考えさせられた。

 

「ブレスシャドー」
ブレスシャドーという地下世界で暮らすダンヒたちは会話ではなく呼吸から意味を読み取ることでコミュニケーションを取っている。

ある日、極地方の調査に向かった探査チームが瓦礫と化した宇宙船から一人の少女を救い出す。地球が滅びた時に宇宙船に乗って他の惑星に向かっていたプロトタイプの人類のただ一人の生き残りである彼女の名はジョアン。

研究室に見習いとして入ったばかりのダンヒはジョアンと同じぐらいの年齢だったこともあってジョアンに興味を抱き、どうにかして彼女がブレスシャドーに馴染むように手を尽くすのだが…。

自分の力が及ばなかった、もっとできることがあったかもしれない、という後悔や無力感が、少しだけ救われる。
大きく変えることはできなかったけどそれでも少しだけ彼女の力にはなれたと感じられるラストが好きだった。

 

人はそれぞれ異なる認知的世界を生きているけれど、交わり合う瞬間もあるというところに、ほんの少しの希望を抱かせてくれた。
誰かから受けた優しさや一歩踏み出さなかった自分への後悔が、その後の人生の道しるべになっていくこともあるということにも気づかせてもらった。 
「地球の果ての温室で」も好きだったけど、この作品もとても好きだった。

 

グレゴリー・ケズナジャット「トラジェクトリー」

 

★★★★

第173回芥川賞候補作
英会話教師として日本で就職したブランドンは、アポロ11号の月面着陸計画の記録を教材に、熟年の生徒・カワムラとレッスンを続ける。
やがて、2人のあいだに不思議な交流が生まれていく。
日本に逃げたアメリカ人と、かつてアメリカに憧れた日本人。
2人の人生の軌道<トラジェクトリー>がすれ違う時、何かが起きる――
アメリカ出身の作家が端正な日本語で描く、新世代の「越境文学」
ニューオーリンズにフォークナーと小泉八雲の残影を見る珠玉の短編「汽水」併録

芥川賞候補作と聞いて読んでみた。

表題作は、日本の英会話教室で教えるアメリカ人・ブランドンが主人公。
3年間日本に住んで仕事はしていてもここが自分の居場所ではないと感じ、かといって故郷に帰りたいとも思わない。
生活は続くが停滞している感は拭えず途方に暮れている。

小さな英語教室の経営者?(あるいは雇われ校長?)が言う「グローバルな時代に備えて」という言葉の空疎な響きに、あいたたたっとなったのだけれど、2話目の「汽水」ではアメリカで行われた各国の大学の交流フェアに「Global」「International」の旗があちこちに貼られ、それを見た主人公がそう言いながらもここに集まっているのはアメリカの大学と関係を結んでいる大学のある国だけなんだよな…と思う場面もあり、グローバルという言葉の曖昧さも感じた。

教室のめんどくさいおじさんであるカワムラの日記が、味わい深くて好きだった。
対面で話すと攻撃的で嫌な感じなのに文章になると柔らかさが感じられる不思議。
また日本人が英語になると途端にカジュアルで朗らかな感じになるところとか、言語と人格の関係も興味深かった。

日本人が海外に移住して疎外感を感じる物語は読んだことがあるけれど、逆は初めてかもしれない。しかもこれを書いた作者はアメリカ人で何年か日本語を勉強してこの作品を日本語で書いているわけで、そういう作品も初めて。多和田葉子さんやジュンパ・ラヒリがそういう作品を書いていることは知っていたけれど、こういう感じなのかな、と。

深沢仁「ふたりの窓の外」

 

★★★★★

互いが、互いにとって"非日常″。
そんなふたりの距離は近づくか?

春の宿、夏の墓参、秋のドライブ、
そして――冬の宿。
それぞれの季節に一度ずつしか
会うことのなかったふたりの一年を描いた、
絵画のような恋愛小説。

自分を裏切った恋人ともうすぐ旅行に出かけるはずだった女、その恋人の代わりに旅に同行することを申し出た男。なぜか承諾してしまった女は、それまで見ず知らずだった男と春の宿で一夜を過ごすことになる――。
春の宿、夏の墓参、秋のドライブ、そして冬の宿。火葬場での出会い以来、それぞれの季節に一度ずつしか会うことのなかったふたりの一年を四章仕立てで描いた、絵画のような恋愛小説。
『眠れない夜にみる夢は』の著者の新境地的傑作。

読メでどなたかの感想を読んで「読みたい」と思った本なんだけど、ものすごくよかった。 

売れない俳優の鳴宮と恋人に浮気されていたことが分かったばかりの藤間が、それぞれ父親と恋人を焼くために訪れた火葬場の喫煙所で出会う。
親戚から白い目で見られて居たたまれなくなって喫煙所に逃げ込んだ鳴宮と、浮気相手から責められてその場から走り去った時に派手に転んでひざから血を流してどうしていいか分からず喫煙所に逃げ込んだ藤間。
異常な状況の中ふたりはお互いの今の状況を話し、藤間が死んでしまった恋人と行くはずだった旅行に鳴宮が同行することになる。

お互いのことが分からないままに最初の旅行に行った二人は、何事にも動じない(演技ができる?)鳴宮の性格もあって、意外にも心地よい時間を過ごす。
自己評価が低い藤間には、学生時代をアメリカで過ごし、いろいろな経験をしてきた鳴宮が眩しい。
一方の鳴宮は素のままの反応を示す藤間が新鮮で、彼女の反応を予想して絶妙な距離を保って、できるだけ藤間が緊張せずに過ごせるように心を配る。

あー、なんかすごくいい感じだったのにあっさり駅で別れちゃったかーとがっかりしていると、2話目ではなんと今度は鳴宮がその年の夏に藤間を自分の祖母と一緒に墓参りに行くのに同行してほしいと藤間を誘う。

全4話収められていて1、3話目は鳴宮の視点、2、4話目は藤間の視点から語られる。

藤間の視点から見ると、鳴宮はとてもかっこよくてスマートで自分とは違う世界の人間だ。
いつもびくびくしている自分とは違って、誰とでも自然に話せて何事にも動じない。そして平凡な自分にはしたことがないような経験をたくさんしている。
一方鳴宮の視点から見ると藤間は自分が少しでも近づいたら二度と会えなくなってしまうのではないかというガードの固さがある。さらに自分はいろんなことに執着せずその場その場に適応してちゃらんぽらんに生きてきたというコンプレックスもある。藤間に惹かれる一方で、恋人になったら自分が逃げたくなるのではないかという不安もある。

藤間の視点から書かれた物語を読むと鳴海はどんな気持ちだったのかを知りたくなるし、その逆もしかり。この構成がすごくいい。
藤間の特質を理解して受け止める鳴宮が素敵だし、自己評価が低くてずっと俯いて生きてきた藤間が鳴宮のおかげで視野が広がるのもいい。

恋愛って自分を見出す行為でもあるということを思い出させてくれる。
会話や空気感もすごくよくて、できれば4話のような急展開はなしで、何年かに渡って二人の距離が徐々に縮まる様子を見たかった。読み終わるのが惜しかった。

角田光代「大好きな町に用がある」

 

★★★★

旅する作家・角田光代による旅エッセイが文庫化!文庫版あとがきも新規収録

ネパールでごはんをおごってくれ「年をとったら若い旅行者におごってあげなさい」と笑ったお坊さん、「この世で一番すばらしいところ」と勧められメキシコ・トゥルムへ行ってみると「すばらしい」とは「なんにもない」という意味だった……旅好き作家・角田光代が行く先々で出会い、食べ、考えたあれこれが詰まった傑作旅エッセイ。出会う誰かの“日常”はこんなにも“非日常”で面白い。ウェブ連載「角田光代の旅行コラム」も収録。

大好きな角田さんの旅エッセイ。
角田さんのエッセイはもう何冊読んだか分からないけれど、いつ読んでも親しい友だちに再会したような気持ちになる。

方向音痴で怖がりだけどバックパッカーで、走るのもマラソンも好きじゃないと言いながら長年マラソンを続けていて大会にも幾つも参加している角田さん。
前にもどこかで読んだことがあったんだけど、ボルドーで行われる仮装をしてワインを飲みながら前菜から肉、魚と食べながら走るマラソン大会が豪快すぎて笑った。すごすぎる!

旅で向かう国や町との縁や、そこで出会った人、目にした風景、訪れた後に気づく自分自身の内面。

そして私は自分のこの先について、明確なビジョンがなかった。そのビジョンとは、どんな仕事をしてどんな家に住んで、ということではない。もっとたましいに近いこと、何を信じて、何を自分に課して、何を嫌って、何を許さず、何を目指して生きていくか。そうしたものがあのときの私には曖昧模糊としていた。それが、あの島でくっきりとしたビジョンを得たのだ。

旅先でビジョンを得ることができるのは余計なものが取っ払われた裸の自分でいられる瞬間だからなのかもしれない。

空想も誇張も含めて、ひとりの心と体と感情ぜんぶを総動員して動くことが、旅なのだなぁと思う。

ここに来ると落ち着くなぁ…だけでなく、なんかここは自分に合わないなぁ…違和感があるなぁ…だったとしても、それもいい旅だったと言える。
歩けるうちにいろんなところに旅したいな。

ベン・ラーナー「トピーカ・スクール」

 

★★★★

2020年ピューリツァー賞最終候補作

「さて、これから一枚の写真を見せるので、ひとつお話を作ってもらいたい(…)この写真に写る人たちはなにを考えて、感じていると思う? まずは、なぜこのような場面に至ったのかを話してみてくれないか」

1997年、中西部カンザス州トピーカ。高校生のアダム・ゴードンは、恋人のあとを追って入り込んだ湖畔の邸宅がじつは見知らぬ他人の家だったことに気づいた。つかのま世界が組み替わり、アダムはその湖畔に立ち並ぶすべての家に同時にいる感覚に襲われる。同一性と、確からしさの崩壊。彼はすべての家にいたが、その家々の上空を漂うこともできた。

競技ディベートの名手であるアダムが、自分のスピーチのなかにみた暴力性。ともに臨床心理士のアダムの両親が紐解きはじめた、自らの記憶。母ジェーンの葛藤と彼女が闘ったトピーカの「男性たち」。父ジョナサンが心の奥底に隠した弱さ。言葉の限界にそれぞれの形で向き合う家族の語りに、アダムの同級生ダレンの声が織りこまれる。クラスにとってよそものだった彼を待つ事件。それは避けられなかったのか? そして、アダムが最後に選び取ったスピーチとは。

複数の声が時代を行き来しながら、米国の現在を照射する。『10:04』の作者が、知性と繊細さをもって共同体を描きだす、小説の新しい可能性。

時系列が入り乱れ、関係性も分からないままに登場人物たちのある日ある時の行動や心情が事細かく語られて、そうかと思えば見覚えのある描写や単語が繰り返し出てきて、「あ、なんかあれがこれってこと?」「想像上の人物じゃなかったのか」と後から分かったり、またはてな?になったり。
正直解説を読まないと最後まで分からない部分もあって難しかった。


主人公アダムはディベートの名手。スポーツ競技のようにテクニックを駆使して相手を論破し打ち負かす。語る内容そのものよりも、場の空気を支配し聴衆を巻き込み熱狂を生むことが勝利の秘訣。
SNSが発展した現在、このような技術が選挙で勝つための重要な手段となっていることは明らかで、本来であれば語られる内容や議論を深めることが大切なはずなのに、相手を打ち負かすための戦略となっている。

アメリカでは自己主張をするのが当たり前というイメージが強くて、ディベートや演説が得意な国民性なんだろうと感じていたけれど、それは自然にそうできているというよりは「できなければいけない」という気持ちが強いのかもしれないと思った。

アメリカ人は一貫して、自分たちの最大の恐怖は演説をすることだ、と言うーその恐怖は、核戦争より、空を飛ぶことより、溺れる事より、ヘビやクモより、そして調査によれば、死そのものよりも大きい。
(中略)
なぜならそれは言語の原光景だからだ、と闇のなかからクラウスの声。集団や共同体がスピーカーに求めるのは、個人的(スピーチは表彰に値するほどオリジナルでなければならない)であると同時に、どこまでも社会的(スピーチは集団に理解できるものでなければならない)であることだ。個人の口を通じてこそ、我々は公共の言葉を聴く。あるいは、人はただ喋っているのではなく、発話における人間の限界そのものに儀式的に挑戦している。

アダムはディベートにのめりこんでいるが、片頭痛に怯える繊細な少年だ。
自分の弱さを克服したくて言葉で武装しようとしているようにも見える。

アダムの母ジェーンは作家で彼女にとって言葉は相手との理解を深めるためのものであり、支配や勝利を意味するものではない。

母ジェーンがアダムがディベートの師匠であるエヴァンソンにダメ出しされているところを見て「我が子を間違った教育に差し出してしまった」と後悔するシーンには共感を抱いた。

一方、父ジョナサンは心理士。彼は患者と向き合う時に敢えて問題行動を起こした理由や説明を求めず、沈黙を選ぶ。
患者たちに言語能力があれば、症状で表現したりはしないと考えているからだ。
質問をして答えさせるのではなく、患者と一緒に映画を製作したり患者に役割を与える中で言葉を交わすことで、関係性を構築しようとする。

そんな父と母に育てられたアダムが言葉を支配の道具として用いるディベートにのめりこんでいくという皮肉。

大人になったアダムが娘2人を連れて公園に行った時、汚い言葉を投げつけて滑り台を譲らない少年に出くわす。直接注意しても全く言うことをきかないので、ベンチに座って成り行きをニヤニヤしながら成り行きを見守っているこの少年の父親の所に行き、少年を説得してほしいと伝えるのだが、この父親は「子ども同士で解決させればいいだろ」と言って決して動こうとしない。
ディベートの名手のアダムが懸命にこの父親を説得しようとどれだけ頑張っても全く態度を変えない父親に苛立ったアダムは最後、この父親が知らんぷりをして見ていたスマホを叩き落とす。

言葉が届かない時、暴力に訴えてしまうということを象徴するシーンだと思った。


アダムが妻、長女とともにICEに対する抗議デモに参加するラストが私にはピンとこなかったのだが、解説を読んで、ああ、そういうことを伝えていたのかと納得した。解説無しでは私は理解できなかった。

ラストシーンで描かれる「人間マイクロフォン」や「民衆のマイク」は、新たな言語使用の具現化である。無数の声が集まり、聴きあい、個の境界を越えて無限に拡張する。その響きは匿名性を伴うにもかかわらず、いや、だからこそ、いっそう言葉の輪郭を際立たせる。
(中略)
言葉の実践そのものを変えることが、社会の変革へとつながるのだ。

 

向田邦子原作「眠り人形」

 

 

★★★

美しい姉といつも脇役の妹。だが結婚後、立場は逆転してしまう。姉妹の心の葛藤と家族愛をテーマにした表題作のほか向田ドラマの傑作「花嫁」「当節結婚の条件」を収録。

まるでドラマを見ているよう…と思ったらシナリオのノベライゼーションだった。確かに「向田邦子 原作」って書いてあったけど…ムムム。

テーマとしては「家族」「結婚」。さすがに昭和だなぁ感は否めないけど、色あせないところもあった。
とにかく会話がいい。
兄姉妹の力関係や性格が手に取るように分かるし、その場の空気感や雰囲気が伝わってくるし、深刻な状況でもどこか笑っちゃうような…家族の会話ってそういうところあるよねと思う。


でもノベライゼーションはもういいかな。なんとなく。

キャメロン・ウォード「螺旋墜落」

 

★★

墜落まで60分。
イムループが尽きる前に
大惨事を食い止めろ。


英タイムズ紙
2024年度ベスト・スリラーに選出!

一気読み以外ありえない
ノンストップ航空SFサスペンス!

数学教師チャーリーの乗った旅客機は午前0時に墜落、乗客乗員は死亡した。
だがチャーリーは23:00に目を覚ます。そして機は再び午前0時に墜落した。
次に気がつくと時刻は23:01。彼女はタイムループに囚われたのだ。
墜落を阻止できるのは彼女ただひとり。
だが失敗のたびにループ開始が11:02、11:03、11:05、11:08と繰り下がってゆく

イムループ物と聞いて飛びついたんだけど、とにかく息子がバカすぎて…。まだ中学生とかならわかるんだけど、いい大人だぜ?
君がするべきなのは探偵雇って父親捜しじゃなく、母から本当の話を聞くことじゃなかったのか?
そしてこれだけ本気で止めてくれた人がいたのに、素敵な恋人もできたというのに、ヤバいカジノに通い続け飲んだくれてのっぴきならなくなるとは…危険察知能力なさすぎ。

とそっちが気になってしまい、ストーリーに夢中になれず。

墜落するところでループが始まってその開始時間が徐々に遅くなっていくところとか、何度もやり直して真相に近づくところとか、面白くないわけではなかったけど、それほど惹かれるものはなかった。

この結末に感動している人もいるみたいだけど、あーまたそうやって最後まで甘やかしてーと思ってしまった。


そもそも自分、サスペンスというジャンルも苦手なのかもしれない。私には合わなかった。

グアダルーペ・ネッテル「赤い魚の夫婦」

 

★★★★★

メキシコの作家が贈る人間とペットにまつわるちょっと不思議な物語。

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◎第3回リベラ・デル・ドゥエロ国際短編小説賞受賞。
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初めての子の出産を迎えるパリの夫婦と真っ赤な観賞魚ベタ、メキシコシティの閑静な住宅街の伯母の家に預けられた少年とゴキブリ、飼っている牝猫と時を同じくして妊娠する女子学生、不倫関係に陥った二人のバイオリニストと菌類、パリ在住の中国生まれの劇作家と蛇……。

メキシコシティ、パリ、コペンハーゲンを舞台に、夫婦、親になること、社会格差、妊娠、浮気などをめぐる登場人物たちの微細な心の揺れや、理性や意識の鎧の下にある密やかな部分が、人間とともにいる生き物を介してあぶりだされる。
「赤い魚の夫婦」「ゴミ箱の中の戦争」「牝猫」「菌類」「北京の蛇」の5編を収録。

2014年にはエラルデ文学賞を受賞するなど国際的に高い評価を受け、海外では毎年のように「今年のベスト10」に取り上げられる実力派作家グアダルーペ・ネッテルの傑作短編集、初の日本語訳!

表紙とタイトルに惹かれて読んだんだけど、とても良かった!
メキシコ生まれの女性作家による短編集。ラテンアメリカ文学のハイテンションは全くなくて、どちらかというと陰鬱で内省的で繊細な感じ。
何かしらの生物と登場人物の心情や状況がリンクしていく物語。出てくる生物が、好戦的な赤い魚、G(まさかの!)、猫、菌(それもすごいところに…)、蛇と独特。


「赤い魚の夫婦」
妊娠中の若夫婦。本人も夫も子どもが生まれる前からピリピリしている。
遊びに来た友だちがおみやげに持ってきたのが真っ赤な魚の夫婦。ベタという種類のその魚は「闘魚」とも呼ばれる好戦的な魚だった。
最初は小さい金魚鉢の中で平和そうに見えた魚たちだが、ある時片方が求愛のポーズをとりもう片方が拒絶したあたりから不穏になっていく。生き物図鑑で生態を調べ、水槽を大きくしたり二匹を離してみたりしてみるのだが…。

つわり中に無性に食べたくなった果物を買うことを夫が罵倒したり、不穏になる魚を嫌になるほど観察して自分たちも不安と不穏を募らせたり…その緊張関係は子どもが生まれて良くなるどころか悪化していく。

あーなんか分かるわーという気持ちと、もうこれらすべてから目を反らしたい気持ち、両方で読み終えた。

 

「牝猫」
拾ってきた2匹の子猫を育てる女子大生。
連れて行った動物病院で避妊を勧められ、そんなのは人間の傲慢だと怒り狂って手術しないで連れて帰ってくる。
その後雌猫の妊娠が発覚し、ほどなく自分も…。

愛猫家なのでとにかく猫がひどいめに遭いませんように…と祈るような気持ちで読み進め、この結末。ままままま…。
保護猫団体から猫を迎え入れた身としてはその結果も正直「あかーん」なんだけどお国柄などもあるのでしょうから、ままままま…。
この文章も納得といえば納得だけど、自分に都合のいい解釈といえばそれまで…。

動物というのは、現実をどんなふうにとらえているのだろう。というより、わたしの猫は、わたしとの現実をどうとらえているのか。彼女のとる行動がどれも、いきあたりばったりではなく、彼女が選んだものであるのは明らかだった。

 

「菌類」「北京の蛇」は恋愛がその後の人生を蝕んでいってしまう話で、なんでという気持ちと分かるーという気持ちと。
独特の孤独と憂鬱と緊張感が漂う作品が多かったけど不快な感じはなくて好きだった。
この心地よさはどこから来ているんだろうと考えると、登場人物と自分との心の距離が近いせいかもしれない。この近さはいったいどこから来ているんだろう?
他の作品も読んでみたい。

サラ・ピンスカー「いずれすべては海の中に」

 

★★★★★

最新の義手が道路と繋がった男の話(「一筋に伸びる二車線のハイウェイ」)、世代間宇宙船の中で受け継がれる記憶と歴史と音楽(「風はさまよう」)、クジラを運転して旅をするという奇妙な仕事の終わりに待つ予想外の結末(「イッカク」)、並行世界のサラ・ピンスカーたちが集まるサラコンで起きた殺人事件をサラ・ピンスカーのひとりが解決するSFミステリ(「そして(Nマイナス1)人しかいなくなった」)など。
奇想の海に呑まれ、たゆたい、息を継ぎ、泳ぎ続ける。その果てに待つものは――。静かな筆致で描かれる、不思議で愛おしいフィリップ・K・ディック賞を受賞した異色短篇集。

アーシュラ・K・ル=グウィンや、ケリー・リンクの作風を受け継ぎながら、彼女自身の不屈の声が全面に響いている。
――〈カーカス・レビュー〉

SFは普段は敬遠しがちなんだけど、これはとにかく表紙が素敵で手に取った。ゴリゴリのSFというよりは奇想寄り?そういえば昔、奇想コレクションってあって大好きだったけど、もう出してないのかな。


「一筋に伸びる二車線のハイウェイ」
コンバインに右腕をめった切りにされた若者アンディが、寝ている間に右腕を最新のロボットアームにされる。
リハビリの末、ロボットアームを扱えるようにはなるのだが、どうやら右腕はコロラド州東部にあるハイウェイだった。

今まで通り農場で働くアンディと、ハイウェイであり続けたい右腕。
心優しいアンディは右腕とコミュニケートを試みるのだが…。

1話目で度肝を抜かれたんだけど、異常な状況でもそれを静かに受け入れるアンディの優しさになんかこう心温まるというか応援したくなるというか…。
これは好みだぞーと思う。

 

「記憶が戻る日」
戦争で負傷した退役軍人の母はベールをしていて記憶が失われた状態で過ごしている。ベールをするということは退役軍人の圧倒的が選択したことだ。
唯一ベールを上げるのが退役軍人を讃える式典が行われる日で、娘のクララはその日に母から戦争で起きたことを聞くことを楽しみにしている。

戦場で何があったのか、父はどんな人だったのか、慎重に聞かないと母は答えてくれないので年に一度のチャンスに賭けるクララだったが…。

これも切ない…。
戦場で経験したことが酷すぎたから記憶を失うことを選択した退役軍人たち。
しかし偽の記憶に縋って生きる母は本当の母とは言えないのではないだろうか。すれ違う母娘の会話が辛い。

 

「いずれすべては海の中に」
なんらかの災厄があり危機に瀕した世界。富裕層は豪華客船で暮らし、地上に残った人間はごくわずか。
豪華客船に招かれて演奏をして日々を過ごしていたロックスターが今の暮らしに疑問を抱いてライフボートで海に出る。たどり着いた陸地で、ゴミ漁りをして命を繋ぐ女性に助けられ…。

さまざまなものが失われ食うか食われるかという状況の中でも心を通わせることを願うのが人間が人間である理由なのかもしれない。
これはもしかするとそんなに遠い未来ではないかもしれない。そんなふうに思うほどリアルだった。

 

「孤独な船乗りはだれ一人」
海にセイレーンが現れて歌を歌い、その声を聞くと錯乱してしまうため船を出せなくなってしまった港町。海に出られない船員たちは飲んだくれ自暴自棄になっている。
ミセス・ウェインライトの旅籠で働く孤児のアレックスは、スマイズ船長に「二人で海に出てくれないか」と頼まれる。子どもであればセイレーンのいる場所を抜けられるのではないかと船長は考えているのだった。

両性具有(なのか?)のアレックスが旅籠で自分より小さい孤児たちの面倒を見て慕われている様子や馬と心を通わせるところやミセス・ウェインライトとのやりとりに温かさがあってじーん…。
別れのシーンには泣いちゃったよ…。

アレックスの天使のような歌声が耳に聞こえてくるようだし、セイレーンと対峙する場面も目に浮かぶ。
収められている中で一番この物語が好きだった。

 

出てくる人たちがみな静かで穏やかで、状況は異常なんだけどありえない感じが全然しない。
静けさと悲しさと懐かしさの漂う短篇集だった。

川本直「ジュリアン・バトラーの真実の生涯」

 

 

 

★★★★★

すべて嘘か、それとも真実か――魔夜峰央さん、齋藤明里さん、東山彰良さん推薦。各メディア絶賛! 壮大なデビュー小説にして第73回読売文学賞受賞作。

【内容紹介】
デビュー小説で第73回読売文学賞(小説賞)を受賞し、各メディア絶賛の超話題作が、宇野亞喜良の装画で待望の文庫化!
作風は優雅にして猥雑、生涯は華麗にしてスキャンダラス。トルーマン・カポーティゴア・ヴィダルノーマン・メイラーと並び称された、アメリカ文学史上に燦然と輝く伝説の小説家ジュリアン・バトラー。その生涯は長きにわたって謎に包まれていた。
しかし、2017年、覆面作家アンソニー・アンダーソンによる回想録『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』が刊行され、遂にその実像が明らかになる――。
第73回読売文学賞(小説賞)、第9回鮭児文学賞、第2回みんなのつぶやき文学賞国内篇第1位受賞。
もうひとつの20世紀アメリカ文学史を大胆不敵に描くあまりにも壮大なデビュー長編小説。

1ページ目に作者自身による「知られざる作家 ー日本語版序文」という文章があったので、ジュリアン・バトラーは実在する作家の話なのかと思ったら、なんと架空の作家なのだった。
ジュリアンと高校の学生寮で同室になって以来の友人(恋人)で、その後彼の作品をエスクァイアに掲載した編集者でもあったジョージ・ジョンが、謎に包まれたジュリアンの生涯を書いたのがこの作品、という作りになっている。

 

堅物のジョージと金持ちで美しく怖いもの知らずのジュリアンは高校で舞台「サロメ」を演じたことで恋愛関係になる。
同性愛や女装が糾弾される時代のアメリカで、ジョージは二人の関係や自分がゲイであることを隠したがり、ジュリアンは全く臆することなく女装して夜な夜なパーティに出かける。

読書家だったジョージはジュリアンの指南を受けて新しい文学やアメリカで発禁になっている本も読むようになり作家を夢見るようになる。
ジョージはコロンビア大学に進学、ジュリアンは父のコネを使って軍隊に入り(前線で戦うのではなく後方にいて観察をするために)そこでニューヨークに住む男娼の小説(「男娼日記」)を書き、ジョージの元へ帰ってくる。

ジュリアンの書いた「男娼日記」は悪文だったが会話は達者で面白く、ジョージは学生時代にジュリアンの作文を直してやった感覚で、構成を変えたり文章を推敲したり結末さえも書き換えてタイトルも「男娼日記」から「二つの愛」に変える。
最初は自分の小説を書き換えられたことに嫌悪感をあらわにしたジュリアンだったが、すぐに「こっちの方が良くなっている」と認め、小説はジュリアン名義で発表することと印税は山分けすることを決める。
こうしてジョージとジュリアンの共犯関係が始まる。

 

奔放なジュリアンに振り回されながらも彼とともに生き、彼の才能に嫉妬したり手助けしたり突き放したり引っ張って行ったり…ジョージの人生はジュリアンとともにあり、ジュリアンにとってもそうだった。
ジョージが振り回されっぱなしだったわけではなく、ジュリアンがジョージに支配されていた一面もあったように思うが、それも込みで二人は切っても切れない関係だった。

読んでいて正直ジュリアンが何をしたいのか、ただの空っぽな男に見える瞬間も多かったけれど、わがままで目立ちたがりでチャーミングな人だったんだろうな。
ジョージの手記だから全てを鵜吞みにはできないなぁという部分は、作者自身が登場するあとがきの章である程度明らかになるところが、気持ちいい。

虚実入り混じっているところ(トルーマン・カポーティゴア・ヴィダルノーマン・メイラーなどの著名な作家が友人として登場したり、オリバーストーンがジュリアンの小説を映画化したり…)が外文好きにはたまらなくて、読んでいてめちゃくちゃワクワクした。

「叶えられた祈り」を書いて小説そのものよりもスキャンダルの方ばかりが取り上げられ意気消沈したトルーマンが酒場で会ったジュリアンに語るシーン。

サン・マルコ広場で二人で写真を撮ったのを憶えてる?あの写真はまだ僕の手元にある」
「覚えてる。二人で鳩に餌をやっているのを撮ってもらった」トルーマンの肥満した顔が歪んだ。
「ねえ、ジュリアン。なんで何もかもが決まりきったように消えてなくなるのかしらね。人生ってなんでこんなに忌々しく、下らないんでしょうね」
ジュリアンは言葉を失った。ハーマンすらリゾットを食べる手を止めた。トルーマンは目に涙を浮かべている。大運河の向こうに落ちていく夕陽がハリーズ・バーを暗い赤に染め上げていた。

小説を書くことと愛する人と生きることについてたっぷり描かれていて満足感が高かった。読んで良かった!