りつこの読書と落語メモ

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キャッチャー・イン・ザ・ライ

キャッチャー・イン・ザ・ライ

キャッチャー・イン・ザ・ライ

★★★

1951年に『ライ麦畑でつかまえて』で登場してからというもの、ホールデン・コールフィールドは「反抗的な若者」の代名詞となってきた。ホールデン少年の物語は、彼が16歳のときにプレップ・スクールを放校された直後の生活を描き出したものだが、そのスラングに満ちた語り口は今日でも鋭い切れ味をもっており、ゆえにこの小説が今なお禁書リストに名を連ねることにもつながっている。物語は次の一節で語りだされる。
――もし君が本当に僕の話を聞きたいんだったら、おそらく君が最初に知りたいのは、僕がどこで生まれただとか、しみったれた幼年時代がどんなものだったかとか、僕が生まれる前に両親はどんな仕事をしていたかなんていう「デビッド・カッパーフィルド」調のやつなんだろうけど、僕はそんなこと話す気になんてなれないんだな。第1、そんなの僕自身退屈なだけだし、第2に、もし僕が両親についてひどく私的なことでも話したとしたら、2人ともそれぞれ2回ずつくらい頭に血を上らせることになってしまうからね――。

ホールデン少年は、教師をはじめとしてインチキなやつら(いうまでもなくこの両者は互いに相容れないものではない)と遭遇することになるのだが、こうした人物に向けられる風刺がきいた彼の言葉の数々は、10代の若者が誰しも味わう疎外感の本質をしっかりと捉えている。


ライ麦畑でつかまえて」を読んだのは大学生の頃だったか。出た時とても話題になっていたし、その頃「こういう小説」を読んだことがなかったから、とても新鮮だったし、ホールデンの傷つきやすさとか見の置き場のなさとかに共感したものだったが…。
もしかすると当時のように感動できないかもしれないなぁと思いながら、今回改めて村上春樹の新訳で読み返してみたけれど、がーん…やっぱり全然感動できなかった…。

やっぱり読書にも「旬」があるのかもなぁ…。そういう考え方って好きじゃないんだけどさ。なんとなく取り返しがつかない感じがして。

一切取材を拒否しあとがきも付けさせてくれないサリンジャーという人に魅力を感じられないせいもあるかもしれないな。

と、ここまで書いて、こんな本の存在に気づく。おお。そうか。ろくに知りもしないで、サリンジャーを「偏屈やろう」と斬り捨ててしまうのは良くないよな…。

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

サリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ』の新訳を果たした村上春樹が盟友柴田元幸と、その魅力・謎・真実の全てを語り明す。

永遠の青春文学、J・D・サリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ』の新訳を果たした村上春樹が翻訳の「盟友」柴田元幸とともに、その魅力と真実、新訳の「目玉」、小説作法のあり方、さらには特異な作家サリンジャーその人まで、縦横に語り尽くす。ホールデンが語りかける「君」とは誰か?小説のエンディングは何を意味するのか?〈『キャッチャー』の謎〉の全てがここにあります。訳書に収録できなかった「幻の訳者解説」も併録。


これも読んでみたくなったなぁ。
これを読んでから読めばもっと入り込めたかも?
って別に感動しなかったからって引け目を感じる必要もないんだけど、好きな人が好きだと言ってるものは同じように好きでいたいじゃないですか…。ははは。

少年の心を忘れてしまったから少年の心を理解することができない」「そんな自分がちょっと悲しい」っていうのとはちょっと違う。
「そんな風に感じるのは当たり前じゃない」「でもだからといって嫌い嫌いで逃げてばかりじゃだめじゃない」って思ってしまったのだ。これ、アントリーニ先生が酔っ払って言ってたことと同じかもしれないんだけど。
(いやでもあの頭をなでられていることに気がつくシーン。あれはいったいどういうことだったんだろうかね。真相が知りたいけれどこういうことってほんとに真相が明らかになりにくいよね、うん。なんかすごくよくわかる…そのひやっとする感じ。)

昔読んだ時はホールデンくんの気持ちがすごくよくわかると思ったし、私はいつでもあなたの味方だよ!と思った記憶があるんだけど、あっという間に「いやでもそういう風に感じることは何も珍しいことじゃなくてありきたりなことで。でもさ」と言うようになってしまうんだな…。